2006/10/16

疲れと癒しがクラインの壷

メビウスの輪というのはご存知かと。雑にいえば2次元の帯でできた輪を切って、一端に180度の3次元的ひねりを加えて片方の端にくっつけたもの。表面をたどって二周すると元の位置に戻ってくると。
クラインの壷はこれをもう1次元上げた考え方なんだけど、3次元の筒による閉曲面に4次元的ひねりを加えて表裏を逆にくっつける。表をたどっていくと裏に行き着きさらにたどればまた表に戻る、という立体。
メビウスの輪は数学的知識がなくてもイメージが湧く。リボン一本あればかなり近いものができるから。
しかしこれがクラインの壷となると、完全な再現は3次元界では不可能なので、イメージしにくい。最大限がんばっても面の交差が生じて「穴」を開けなければ実現できないから(下図参照)。

まあ要は机上のものなんだけど、この考えと存在は大変好きで疲れたときによく思い出す。
バイオリズムというものがあるでしょ。これとセットにこのクラインの壷を思うのよ。なんてことはなくて、疲れていくときと元気になっていくときをついつい普段ぶつ切りにしてブロックとして捉えがちになっちゃう。するとそうじゃないのかなと考え出す。疲れがあるから癒しを求めるし、癒されてまた何かを始めるから疲れていく。ちょっと陳腐な書きようだけど、陳腐なのはクラインの壷の形をきちんと作れないのと同じことなんじゃないのとも思うので、意外にそういうもんかなと。
乱暴な仮説だけど、もしまったく疲れない肉体と精神を持ってたら癒しなんて必要としない…すると癒しによる幸福感だとかそれに付随する知識情報は一切手に入らないのでは?ってこと。うまく伝わるかな?
なかなか上手にこのことを記録できないんだけど、要はこんな考え方一つで疲れも少しは付き合いやすくなるし、癒しに対しては普段の何倍も感謝の気持ちになれるような気がして、今日もまたセルフ洗脳を怠らないんだね。
というか疲れも癒しも手に入れられている今の環境にすこぶる感謝したい。って言いたかったんよ。
ふースッキリ^^
20061016-tsubo.jpg 頭の中にあるものを絵で表すというのは難しい例


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