さあ最終日。7時朝食。最後の朝食も実に美味しい。本当に感謝。
最終日の朝は残念ながら初めての雨。結構ざんざか降り。
しかし宿でだらだらと朝食の消化がてらゴロゴロしてたら止んだ。明るくなってきた。
ゴロゴロしている間に小笠原の歴史を学ぶ。結構近世まできちんと日本でなかったことに驚く。
荷物もまとめたしギリギリまで遊ぼう。
レンタカーを借りに行き、今日は島を一周することに。生協で水と帰りの酔い止めを追加購入。
まずは小笠原神社へ。本当はその向かいの扇浦に行ったのだけど、そこにあった神社と碑のほうが
気になったのでそちらへ。
ほうほう。これが小笠原新治碑か。1862年に 水野忠徳 と 小花作助 が
2年前には勝海舟と福沢諭吉とジョン万次郎を乗せてメリケンに行った咸臨丸で
小笠原に来て領有権をはじめてきちんと諸外国にも伝えた際の石碑ですナ。
歴史を調べてみるとその187年前、1675年にも調査に来て領有宣言した石碑を
置いたようなのですけど、その碑がどこにあるのかはまったくわからない。
187年間いろんな国に勝手に捕鯨基地にされたりエゲレスに勝手に領有宣言されたり(1827年)して
何が何だか分からないところがまたカオスで面白い。
なにしろ最初の(1830年)定住者は日本人ではなく、欧米人やハワイ人だったというのだからなんとも複雑。
とりわけその中のリーダー、セボレー氏 はアメリカ人。
30年以上も日本人以外の人が住んでいるところに行って「ここは日本なのでよろしくね」と
説明して了承してもらった水野忠徳と小花作助が逆にすごく感じる。
小笠原神社に楽しく滞在させてもらったお礼をして立ち去った。
さらに車でウロウロする。雨で飛び出て車にひかれたカエルたちの死体を避けながら、
車で行ける道を進む。
初寝浦展望台というのがあったので車を止めて林道へ。旧日本軍の通信所跡とやらがありちょっと怖い。
林道を抜けるとそこは、展望台という名の崖。柵も何もないが、これこそ絶景だろう。
高所恐怖症の私は完全に足がすくんでしまったが、景色がキレイなのはよくわかる。
もどると首のない二ノ宮金次郎像があった。後で調べたら米兵が切って首を持って帰ったらしい。
その米兵の枕元には二宮尊徳が出てきたことでしょう。
JAXAの小笠原追跡所があった。ここはさすがには入れないので柵の外から妻がスパイする。
さらに進むと国立天文台VERA小笠原観測局が。VERAについては こちら をご覧ください。
とにかく国内4か所のアンテナを組み合わせると、直径2300キロメートルの望遠鏡と同じ性能が
出るんだそうな。これで銀河の地図を作るというわけで、実にしびれる。
そうこうしているうちにあっという間に父島一周。車で行けるところはこんなものか。
あとは自然ガイドさんとトレッキングするしかないわけだ。トレッキングね。疲れるやつね。
楽しそうだけど今回はいいです。また機会があれば…。
大村に戻ったら最後の昼飯。サワラのレアカツ定食美味しかった。私は鰆という魚がすこぶる好きだ。
農協で土産物など買ったらレンタカーを返して宿で最後のシャワー。
宿にお別れを告げ港まで送ってもらったらこれで小笠原滞在は終了だ。
粛々とおがさわら丸出航の時間を待つ。名残惜しいな。
おがさわら丸に乗って荷物を置いたらデッキに出てみる。
島総出でお見送りに来てくれている。こういうのは嬉しいね。手を振り振りおが丸は出航。悲しい。
と、たくさんのクルーザーがおが丸を追ってくる!みんな手を振っている。
次々と順にクルーザーの皆さんが海に飛び込んで手を振ってくれる。
みんな自分の乗ったクルーザーを探したりしていた。これはすばらしい。実に感動した。
かなりの外洋まで追っかけてきてくれ、このたびは感動的なフィナーレを迎えたのだった。
小笠原を離れると、あとは行き同様に夕寝してから夕陽を眺め、食堂で夕飯を食べたら夜寝して、
早朝日の出を眺めたら二度寝して、朝飯食べたら昼寝して。
館山を経由したへんですっかり目が覚めたのであとは酒飲んで竹芝到着までダラダラと過ごす。
24時間以上の船旅はどうなることかと心配していましたが、これだけ時間が長く、
しかしベッドさえあればとにかく体力回復の場として快適に過ごせるということがわかった。
小笠原から帰ってきて数日たつものの、正直仕事しつつも完全に父島ロスな状態で
まだボケている。当分ボケているかもしれない。またあそこに戻れるだろうか。戻りたい。
(おわり)
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