そりゃそうだ。明日を生きる人というのはもうダメの烙印を押されたようなもので、みんな一生懸命今日を生きているわけですね。題名フォロー(^皿^)
昨日は連れとおなじみ荻窪「秋吉」から「元気ぼう」。連れお奨めの日本酒「東一」を飲む。うまい。連れと別れてから帰宅中にこれまたおなじみの新宿ロッキンチェアから呼び出しでさらに飲み。最後つぼ八。飲んでばっかりだなー。日中それなりに一生懸命働いてるんで、夜は遊びたい。そうすると睡眠はどんどん減るけど、友人は何より大切でしょ。てか最高に楽しいし。彼らが私を生かしてくれるのです。
連れと仕事の話なんかして、たまにはまじめな話なんかもしたりだと「ブログに飲んだ話ばっかりじゃなくてこういうことも書け」と言われたんだけど、なんか恥ずかしいよね。もちろん私には私の人生観があって、でもそれは自分で勝手に構築したものじゃなくて人と人の間でこすれあって組み立てられたもんなんでなんかそこを公開するのは排泄を見られるような恥ずかしさがあったり(^^*)
この7〜8年くらいは本当に情報社会が進んだ弊害でかたいしたキャリアも踏んでないのにどこで学んできたんだかわけのわからない価値観を振り回す人が回りに増えてきて困るわけ。
集団の中でコストに携わる仕事をしない限りは、それは単なる人足に過ぎないというのが私の仕事観なんだけど、昨今は情報が十分に与えられすぎていて「できる」気になってる。そのくせ満足な仕事ができていない。のにどこぞで学んだ理屈で包み隠そうとする。いいからやるべきことを100%きちんとやってから発言してほしいんだよね。
まあそうは言っても100%は大変。別に80%でも70%でもいいからその状況を正しく報告しさえすれば何とかできたりするのにそういったことが足りない。またちょっとした手間を何故か後回しにして簡単なことが間に合わなかったりする。私の世代だと今もそうかもですが仕事のホウレンソウなんて言葉がありましたが、知ってるのかねえ。
いや知ってるは知ってんだよね情報社会だし。理解して実践してるかが問題。
情報社会の弊害はそれだけじゃなくて変なプライドも育てる。いかなる業務の達成にも必要なのは、作業(肉体的)と根拠となる知識(精神的)だけど、最近の人たちは知識はもらえるもんだと思ってる。もちろんもらうものなんだけどもらうのはあくまで自分であって、それをもらえない責任は自分にあるんだということを理解してない。作業に目が行き過ぎてその遂行におかしなプライドを持ってしまってるだろうけど、実際に重きを置かれるべきなのはその前提となる知識の取得なのに。しかもそれが手に入らないと責任の転嫁をはじめたり。
どんな状況でも、課された業務をこなすのに必要なものを手に入れるのは自分の責任というのが大原則。
そのために全力を費やす、それこそが仕事である、というのがこれまた私の仕事観なんだな。作業なんて覚えりゃ誰だってできるんだよ。
ちゃんとそれができてないからその業務達成の見極めもできなくなるんだよね。できないことはできないわけで、できると言っちゃったら血を吐いてでもやらなきゃいけない。血は吐きたくないから「できない」を言わなきゃ!
長々と書いたけど要は仕事する上では言い訳なんてのは、親が死んでもするな、ということかな。言い訳を考える時間があったら動け。
言い訳なんてのは痴話喧嘩やら待ち合わせの時にでも使えばいい。そういえば私はフル活用してるなー(^皿^)
なんつてなんつて。まあ定期的にまじめな話。
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